ホワイトな空間 5                                     目次  1  2 3  4 6
「ある日の電車の中で」

赤ん坊を抱いた若い母親が隣に座った。
まわりに迷惑を掛けまいとする様子が見て取れた。
でも、赤ん坊の裸足のちっちゃなアンヨが私の脇腹にしっかり踏ん張っているのを母親は気が付いていない。時々キックする。
とめどなく流れるよだれをしきりに気にしている。

と、いきなりその赤ん坊は口に突っ込んでいた手で私のレースのサマーセーターの袖をつかんだ。
(-_-;)私はすっかり観念してその可愛いオテテが口の中と袖を行ったり来たりするのを見ていた。
機嫌よく遊んでいる様子があんまり可愛いので、思わず指を出してみたくなった。
でも、知らないオバサンのバッチイかもしれない指をつかんだオテテが再び口の中に入ったら
母親はさぞいやな思いをするだろうと思い遠慮した。
ニコッと微笑むに留めたのだが、その日は日差しが強く、私は色の濃いサングラスをしていた。

そのうち母親の大きなバッグの中から赤ちゃんボーロが登場し…やわらかいお菓子がよだれと融合し始めた。
さすがに、参ったなと思い始めた頃、赤ん坊がむずかりだし、その母子は席を立った。
駅に着いて降りる時あの二人はと見ると、疲れきった様子の母親の胸で赤ん坊はぐっすり寝ていた。
良い子に育って、お母さんを大事にネ!
「やっぱり父のこと」

皆で病院に父を見舞って帰る時のこと。
病院の出口まで出てきた父は、私達を見送りながら、一瞬、生真面目な中学生のように気をつけの姿勢をして
深々と頭を下げた。
それまでの父は、「ヨッ!」とか「ジャーな」と笑って、二本指を軽い敬礼のようにおでこのあたりに持っていくような人だった。
それが…直立不動の姿勢で、いつまでも、いつまでも見送ってくれた。
晩年時折父が見せる素顔は、謙虚で慎み深いものだった。
私は不意打ちを食らったような…なぜか胸が締め付けられるような思いがした。今思い出しても涙が出そうになる。

父の古い日記を見つけた。
そこには、満州の地で病で隔離病棟に入れられ、一命は取り留めたものの、体重が増えてしまったことを申し訳なく思う…
又会ったこともない、個人的な恨みのない人間を、敵だという理由で殺せるのだろうかと悩む若い兵士の姿があった。
私なんかが読んでよかったのかどうか。
遊び心のある、楽しい父からは想像できない姿だった。

色々な時代を生きて、成功も挫折も経験し、ふと肩の力が抜けたとき…父が見出した居心地の良い場所は、純粋な好奇心が
渦巻いていた懐かしい心だったんだろう。
その心で、目の前にある一つ一つを大切に楽しんでいたんだろうな、私にはそう思える。